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2011年7月27日 (水)

文化大革命-毛沢東の意図(神への挑戦)

中国は、社会主義社会建設を実現した後、「百家斉放・百家争鳴」運動の結果生じた党批判を封じ込めるために発動した1957年の反右派闘争を経て、再び階級闘争は重視されるようになっていく。1966年には、毛沢東の「階級闘争を要とする」という「プロレタリア独裁の下での継続革命理論」によって明確に推進されることになった。すなわち、社会主義社会の中でも階級は存在し、搾取階級と被搾取階級との間に階級闘争も絶えず発生するというものである。

毛沢東の継続革命理論に基づいて展開された文化大革命は、中国共産党の組織機構、国家機構の秩序を徹底的に破壊した。1976年毛沢東が死去し、1977年第11回党大会で正式に文革の終了が宣言されたが、階級闘争の否定は鄧小平が実権を掌握した1978年であった。

毛沢東は、最後まで文化大革命を指導した。間違ったとか判断が狂ったという批判があるが、本人は最後まで頭がはっきりしていて、判断は冷静であった。それゆえ、文化大革命の評価が難しいものとなっている。毛沢東は、何を目指していたのか、これがこのテーマである。このテーマに迫るために、まず毛沢東の生い立ちに迫る。

毛沢東の生い立ち

毛沢東は、1893年12月26日湖南省の中農の家庭に生まれた。両親と弟二人。父は、理財の才があり、資産を増やしていったという。父は、毛沢東に自分の有力な助手になってもらいたくて私塾に通わせた。しかし、毛沢東はこのような父に反抗して育ったと述懐している。かれは、長沙の飢饉で人々が暴動を起こして処刑された話を聞いて、憤慨を感じる人間になっていた。父親が貧民に略奪されて怒り狂っていても同情しなかったという。

毛沢東は、成長し長沙に出て、湖南第四師範(のちに第一師範と合併)に5年在学卒業する。若き日の日記に、「天を相手に奮闘す そのたのしみ きわまりなし。地を相手に奮闘す そのたのしみきわまりなし。人を相手に奮闘す そのたのしみ きわまりなし」と記していたという。毛沢東は、ここで「第一師範の孔子」と噂される楊昌済という教師と出会う。毛沢東の回想によると、「楊昌済は、理想主義者で、道徳性の高い人物で、自分の倫理学を非常に強く信じ、学生に正しい、道徳的な有徳な、社会に有用な人物になれという希望を鼓吹した」という。毛沢東は、この教えを聞き、「いささかも自私自利の心のない精神を樹立して、高尚な、純粋な、道徳をもった人になろう」と手記に記している。また、「体育の研究」という論文(のちの毛沢東思想の原型があるとされている)を書き、「学校の設備、教師の指導、これは外なる客観であって、われわれには内なる主観というものがある。いったい、内において、心に断ずれば体は命令に従うものである。自分が発奮しなければ、外なる客観が善を尽くし美を尽くしても効果をあげることはできない。故に体育を重んじる人は、必ず自ら動くことから始めなければならない」と論じた。この他に「心の力」という論文を書いており、楊昌済は激賞したという話が伝わっている。毛沢東の最初の妻は、楊昌済先生の娘、楊開慧である。毛沢東は、「楚に三戸あれば、秦を亡ぼさん」という湖南の昔の国「楚」の詩人の愛国の憂憤を書きとめ、「愛国の熱情をもつ若き友を求む、困苦に耐え祖国のために犠牲となる決心ある志士よ、通信により連絡されよ」というビラを各学校に貼り出すなどして、憂国の士となっていく。

毛沢東は、24歳の時第一師範を卒業して、北京と長沙を往復しながら湖南学生連合会を組織する。そして1921年毛沢東27歳の時、中国共産党の創立に湖南省代表として参加する。当時の毛沢東は、湖南省を北京から分離するという主張をしており、米国式の「連省自治」を構想していたともいわれている。

毛沢東の理論

毛沢東の理論は、マルクス・レーニン主義とは少し異なる。中国の実情が反映されているといわれる。その理論の中には、「中国」の伝統的概念が取り入られている。

毛沢東のマルクス主義理論の構築にあたっては、中国の古い概念「実事求是-事実に基づいて、物事の真相・真理を求めたずねる。また、先入観を持たず、風説にも惑わされることなく、真実を求めようとする姿勢をいう」、「陰陽の弁証法ー弁証法の矛盾の概念を陰陽の二元説に置き換えているという見方がされている」を下書きとしながら、『矛盾論』において革命への具体的適用を扱ったとされているのである。それゆえ、ソ連側は毛沢東の弁証法に対する理解を異端とみなしていたという。

『矛盾論』の中の「四、矛盾の特殊性と相対性に関する分析」に、「政治、文化などの上部構造が経済的土台の発展を阻害している場合には、政治や文化に対する革新が、主要で決定的なものとなる。このように言うのは、唯物論に背いているだろうか?背いていない。なぜなら我々は、全体的な歴史発展の中では、物質的なものが精神的なものを規定し、社会的な存在が社会的な意識を規定することを認めるが、同時に、精神的なものの反作用、社会的存在に対する社会的意識の反作用、経済的土台に対する上部構造の反作用をもまた認めるし、また認めなければならないからである。これは、唯物論に背くことではなく、まさに、機械的唯物論に陥らずに弁証法的唯物論を堅持することである」と記述している。

また、毛沢東の持久戦論の旧版には、「やるとすれば、まず思想があり、道理があり、意見があり、計画・方針・政策・戦略・戦術があるべきであって、そうしてこそ、はじめて、やることができ、また、りっぱにやることができるのである」と記述している。

精神的なものが物質的なものを動かすという論点を提示している。これは、マルクス主義にはない論点であり、青年時代に既に育まれた儒教倫理と「心の力」という論文を書いた青年時代の考えが基調にあると考えるのが妥当であろう。

文化大革命を考える上で重要な毛沢東の思想として、「破なければ立なし」「破を押し出せば立はおのずと付いてくる」、「天下の大乱から天下の大治に至る」という考えがある。この理論は、マルクス主義の唯物弁証法には符合しない考えであるのだが、毛沢東の中国共産主義革命を知る上では無視できない論点である。つまり、旧い生産関係、旧いイデオロギー、旧い生活習慣等々を打破して「破」が成立することによって清められ、「立」の任務が生まれ、生産と建設を工作することに至る。旧いものを打破するために乱を起こす必要がある。文化大革命は一つの政治闘争、階級闘争であり、それは思想を清め、政治を清め、組織を清め、経済を清めるものである。修正主義を歩んでいる党と国家の指導的幹部は、通常の方法では打倒できず、天下大乱の情勢をつくり出すことによって逃げ場をなくして初めて打倒できる。このため、毛沢東は乱を恐れず、乱を作り出そうとする。その後「立」をなそうと、党の組織工作、政権機関の工作、労働組合の工作、各種の大衆団体の工作を呼びかける。中心工作に奉仕しようと呼びかけるのだ。

中国の歴史は、古代春秋戦国の時代より破壊と再生の繰り返しであるといわれる。領土の奪い合いから始まり、秦の平定以降は天下の奪い合いであった。そして奪った後の政治体制は、以前の中央集権の官僚政治であった。ほとんど変わらなかった。この歴史が、毛沢東の「破」と「立」の理論の根底にあったのではなかろうか。「乱」と「治」は、繰り返してきた。この繰り返しこそが、プロレタリア独裁下での継続革命による共産主義社会への弁証的発展方法と考えていたのではなかろうか。ただ、他の人には、全く理解できていなかったようである。

毛沢東の目指した理想社会

毛沢東自身は、追及した理想社会について、明確には一度も述べなかった。文化大革命で達成しようとした社会とはどのようなものであったかは、四新新しい思想、新しい文化、新しい風俗、新しい習慣)を提起しているだけで、具体的な内容については明らかにされていない。(革命が追求する社会目標が曖昧模糊としているのである。)

毛沢東の理想社会の輪郭は、1966年5月7日林彪にあてた書簡―のちに「五・七指示」と呼ばれる―中に描き出されている。

労働者、農民、学生、軍人、商業従事者、サービス業従事者、党政府機関人員がそれぞれの職業・学業を主としながら別の職業を学ぶというものであり、知識を学び、工業を学び、農業を学び、軍事を学び、ブルジョア階級への批判に参加し、全国を『大きな学校』に変えていかねばならないというものであった。同年8月1日の人民日報は、「毛沢東同志の提起した大きな学校という思想こそ、われわれの綱領である。このように行うならば、高度の政治的自覚をもった、全面的に発展した、億万の新しい共産主義的人間を育て上げることができ、いっそう多く、はやく、立派に、むだなく社会主義を建設することができ、よりはやく資本主義、修正主義の社会的基礎を取り除くことができる。このように全国が毛沢東思想の大きな学校であり、全国が共産主義の大きな学校となる」と論説した。みなが平等であるという『大きな学校』がつくられれば、[三大差別](工業と農業、都市と農村、頭脳労働と肉体労働の三つの格差)は自然消滅し、人々は万能選手になり、人々が奴隷のように分業に服従させられている状態は存在しなくなる。

席宣・金春明はこの理想社会を、「自給自足の自然経済の基礎の上に建てられた平均主義的色彩の濃厚な小生産者の空想王国というべきものであった。毛沢東は共産主義の新しい世界を発見したと考えたが、実際には「左」傾的で空想的な、歴史的遺物の影響を強く受けた社会発展の法則にもとった誤ったパターンの中に落ち込んだと指摘している。

毛沢東は、1958年、一歩一歩順を追って工業、農業、商業、学(文化教育)、兵(民兵)を一つの大公社として組織し、それによって社会の基本単位とするという認識の下に、全国の人民公社化の中にその理想を実現させていた。

さらに、理想社会においては、分配はおよそ平等におこなわれなければならず、現物給与制がよりよい制度であり、食にも衣にも金銭が不要である状態を実現しようとする。毛沢東の警護長を務めた李銀橋の回想によると、「毛沢東はもっとも金銭を嫌った。毛沢東は蒋介石と握手したが、金をにぎることはなかった。毛沢東は延安で金をにぎらず、陝北に転戦した時にも金をにぎらず、北京入城後はさらに金をにぎらなかった」という。毛沢東自身も「やれやれ、かねというものはまったく煩わしいものだ。私が持っていても仕方がない(権延赤「神壇を降りた毛沢東」(雑誌『炎黄子孫』1989年第2号よりの再引)と述べたそうだ。毛沢東の心の中には、「われわれの党は、20数年の間戦争を続けてきた党であり、長期にわたって現物給与制をおこない、解放初期までずっと平均主義の生活をしてきた。この歴史的経験は、社会主義建設にあたってきわめて大きな意義をもっている。ある人は平均主義は怠け者を生むというが、過去22年どれほど怠け者が生まれただろうか。わたしは何人も見ていない。わたしは、現物給与制を行えば人間が怠け、創造や発明をしなくなり、積極性がなくなるなどということは信じない。解放後、全部を賃金制にして等級評定をやったが、かえって多くの問題が生まれた。

毛沢東の構想した社会は、多くの都市、農村の人民公社によって構成されるものであり、人民公社は分配における平等を実現するために必要な基層組織であった。人民公社は、二つの移行(集団所有制から全民所有制への移行及び労働に応じての分配から必要に応じての分配への移行)を実現するための最もよい形式であり、大であり共有であることはこの二つの移行の実現を有利にするものであり、それは将来の共産主義社会の基層単位となるものであった。このような理想をもっていたがために中国社会主義社会の中に存在する幹部特権、官僚主義、等級制度などに大いに不満をもっていた。給料を等級に分けて、着る物を三色に、食べ物を五階級に分け、事務机も椅子も分けるならば、その結果は、大衆から遊離し、兵は将を愛さなくなる。不平等な幹部と大衆の関係を根こそぎにしなければならない。

毛沢東の決意

席宣・金春明によれば、資本主義復活の危険性を説く毛沢東の判断が前面に出た、八期十中全会(1962)こそが、左傾理論が他を凌駕する鍵となる重要な作用を果たした。その後、具体的な政治運動を経て、左傾がさらに左傾し、より左傾した観点からより多くの「階級敵」が発見されるようになり、一種の悪循環が発生した。

毛沢東は、正しいと認めたならば、たとえ多くの人々の反対があろうと、最後まで譲らなかった。生涯の中で敗北を認めたことはほとんどなかった。1966年江青にあてた書簡で「全世界の百あまりの党の内、大多数の党がマルクス・レーニン主義を信じなくなった。マルクスとレーニンですらたたかれて粉微塵になっているのだから、われわれにおいてはなおのことだ。中国の反党分子は、われわれの党とわたし本人をすべて打倒しようとしている」と書き、身を挺して「潮流に反する」という原則を堅持し、、修正主義の狂瀾のなかからマルクス・レーニン主義を救い出し、中国と世界の革命事業を救い出さねばならないと考えた。そのためには、たとえ自分がたたかれて粉微塵になることも辞さなかった。毛沢東は、大衆を余すところなく動員し、大衆の力に依拠することによってのみ、勝利が可能であるという認識をもった。そして彼は決意した。億万の大衆を立ち上がらせ、全国で全面的な階級闘争を展開して、天下大乱の形勢をつくりだすことによって、あらゆる牛鬼蛇神(ヨウカイヘンゲ)どもを徹底的に取り除き、最終的に天下の大治を達成しよう。これがすなわち、毛沢東が主観的に想定した「プロレタリア文化大革命」であった。

毛沢東は、1973年頃外国人客との談話において、「秦の始皇帝は中国封建社会で最初の有名な皇帝である。私も秦の始皇帝である。林彪は私が秦の始皇帝であると非難した。中国は一貫して二派に分かれていた。一派は秦の始皇帝を良いと言う。もう一派は秦の始皇帝を悪いと言う。私は秦の始皇帝に賛成し、孔子様に賛成しない」と述べた。自分の手で、プロレタリア文化大革命を最後まで進めるという決意の表われである。

神への挑戦

1965年1月、スノウと会見した毛沢東は、「神との対面を準備している」と語った。「天」への回帰である。紅衛兵の集会に臨んだ毛沢東の横顔には、そうした言葉から連想しがちな、消極的な諦観の影はない。むしろ、どこまでも人間くさく、自分が指導した中国革命の未完の事業を時代の青年たちに、しっかりと引き渡したいという、意志と執念と興奮による輝きと、そしていくらかの疲労も感じられるようである。《竹内実著 「毛沢東伝」毛沢東語録(河出書房新社)所収》

毛沢東は、社会主義革命が成就した後も、継続的にプロレタリア革命を行わなければならないと考えていた。社会的物質基盤がプロレタリア革命によって成就した後も、人間の上部構造(政治的・法律的・宗教的観念や制度の体系,つまり学問,文化や,国家,政冶など)は、まだ変わっていない。それゆえ、継続的に革命を展開しない限り、共産主義社会は実現できない。

毛沢東は、この上部構造、人間の意識の革命を人間の手によって実現しようとしたのだ。7~8年乱を起こして、7~8年安定させるという天下大乱・天下大治の思想は、継続的に困難な状況を作り出して人間を鍛えることによって、人間の意識をはじめとする上部構造を改革して、共産主義に近づけることができると考えていたようだ。これが、文化大革命を最後まで誤りとして認めず、最後まで推進しようとした理由である。

ここまで記述してきて、おやっと思われないだろうか。社会主義革命では、理想社会は実現しないといっているのだ。人間の意識の改造が必要であり、革命後も引き続き革命を継続する必要があるといっているのだ。そして毛沢東は、意識の改造は神の領域ではなく、人間の指導によって人為的に実現できると、神に挑戦したのだ。おそらく、毛沢東は頼りにならない神に失望したのであろう。結果は、文化大革命の結果を見ればあきらかであるのが。

意識の改造は、宗教的にみれば人間の邪念の払拭と救いという問題である。毛沢東は、この問題に自力主義で挑戦したのである。宗教は神への信仰という他力主義で実現しようとしたのだが。同じ課題にぶつかった毛沢東は、異なる方法を採用したのである。毛沢東は、文化大革命に大きな自信を持っていたと思われる。それが、「神との対面を準備している」という言葉になって表れていると思われる。残念ながら、その目論見は外れた。しかし毛沢東のこの挑戦は、逆説的に、宗教が抱える問題と同じ問題を別の観点から提示した。それは神とは何か、意識の改造とはいかなることか、救いはいかにして訪れるか、救世主は必要かという問題であり、この問題が必然的に人類の前に提起されたのである。

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