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2013年1月20日 (日)

「教育勅語」をふりかえって(2)制定過程と反響

②教育勅語制定過程

教育勅語の作成は、1890年2月17日から開かれた地方長官会議における発案に始まる。会議の議題の中に、普通教育における徳育に関することがあり、議論に多くの時間がかけられた。

建議案では、普通教育の主眼は徳性の涵養と知識教育の習得にあるが、現在、学校では後者に重点を置いているため、子どもは就学して博物や数学の一端を学ぶや、それらの知識をもたぬ親たちを軽蔑して軽佻浮薄となる。さらに高等小学校に入ると、父親の業の継承を望まぬようになり、中学生ともなると、いたずらに天下の政事を論じ、抗争粉擾を起こすものが少なくない。地方長官会議では、このように若者が洋風に染まっている現状をにがにがしく憂慮し、徳育強化を提唱する。そのさい注目すべきは、日本には日本固有の倫理の教えがあるのだから、この固有の倫理に基づくべきであると強調したことである。また、建議案では、徳育の主義が定まったならば、小中学校、師範学校における修身や倫理の教科書を選定し、授業時間を増やし、徳育を盛んにすべきであると提案している。

籠手田安定(島根)や高崎五六(東京)は、1882年の地方長官会議の際にも徳育重視を当局に迫ったが採用されなかったと、地方長官の努力には限界があると訴え、徳島の桜井勉は、「我国家ヲ重ンスル則チ大和魂ナルモノヲ養成セントスルノ趣旨ヲ加エタシ」と提案した。さらに、熊本の富岡敬明は、徳育は普通の手段ではとても回復は望めず、この際「陛下直轄御親裁ヲモ望ム所ナリ」と発言している。知事一同は、会議後文相榎本武揚を訪れ、建議書を手渡した。

この知事たちの行動の背後には山県有朋の影もあるようだ。山県は、後年当時のことを「余ハ軍人勅諭ノコトガ頭ニアル故ニ教育ニモ同様ノモノヲ得ンコトヲ望メリ(1916年11月吉田熊次筆記)」と、自ら発案した軍人勅諭のことから教育勅諭を思いついたと回想している。結局、山県の奏請により、天皇は榎本文相に徳育の基礎となる勅語の起草を命じた。

山県首相の意を受けて、芳川顕正が新たに文相に就任し、勅語作成は急速に動き始める。その就任にあたっては、天皇自らが直接、芳川に向かって教育上の箴言を編むように命じた。この天皇の言葉に接して芳川は後に、「今上陛下が、平生如何ばかり教育上に御軫念(しんねん)あそばれしかを恐察し奉り恐懼(く)措く所を知らなかった・・・・・【教育勅語御下賜事情】」と言っている。勅語の作成、発布に至るまでの主役は、この他に天皇の侍講で教学聖旨作成を主導した元田永孚(もとだながさね)、大日本帝国憲法起草の中心人物で法制局長の井上毅、『西国立志編』訳・編者で東京大学教授、女子高等師範学校校長の中村正直の三人である。

文部省の指名によって最初に勅語の原案を書いたのが中村正直で、この案を不服として別案を作成したのが井上毅であり、終始天皇のために尽力して井上を援助したのが元田永孚であった。

最初の勅語原案(中村案)は、敬天尊神こそが教育の根源であり、忠孝が人倫の大本とはされていているものの、滅私・国に奉じるよりも人間としての個人の完成に力点が置かれていた。また草案は長文で、宗教的・哲学的な調子であった。この原案にすぐに厳しく批判したのが井上毅である。井上の主張は、①今日の立憲政治では君主は臣民の良心の自由に干渉しないのが原則である、②宗教上の論争を避ける意味で、「敬天尊神」の用語は避けるべきである、③哲学的な論調は、反対思想を引き出すため避けるべきである、、④政事上の臭味も避けるべきである、⑤勅語は、「君主の訓戒は汪々として大海の水の如くなるへく浅薄曲尽なるべからず」のようなものにすべきである、と述べている。

中村案を見せられたもう一人の中心人物元田永孚も、草案を書いている。元田は、儒教主義を基本としながら日本固有の教育大旨を求めようとしていた。天皇の祖先が国を開き、以来、皇統無窮である国体こそが教育の進む道である。五倫の道をもって皇祖皇宗の教えとし、日本人を養成することが重要であると述べている。

井上は、上に述べた批判の上に立ち、草案を山県に提出した。草案原案は定かではないが、教育勅語の原型に近いものであった。この後、井上案をもとに勅語作成が行われることになる。勅語作成にあたっては、元田と井上の間で意見交換がこまめに行われた。中村も、井上案に対して賛意を示したので、作成作業は順調に進み、9月9日前後に天皇に草案が渡され、天皇から芳川文相に渡され、23日ごろ山県首相の手もとに届けられた。山県首相は、「簡短にして主義明瞭尤好と存候」と井上宛に書き送っている。勅語は、1890年(明治23年)10月30日、内閣総理大臣と文部大臣を宮中に招いて渡された。

③教育勅語制定後の反響

教育勅語が発布されると、多くの新聞が論評を出した。そこでは、勅語発布により教育の大方針が定められ、暗闇に光明を得たという論調が多数を占めていた。東京日日新聞は、「幕府時代の儒教主義が倫理綱常を重んじて道徳を保つには有効であったが、固陋に陥ってしまい、一方、維新後は欧米の学問を追って道徳が忘れられた。そこで一時は儒教主義をとったが、これは『枉れるを矯めて直に過ぐる』という弊をもたらし、大臣更迭の度に教育方針の変更があり、大洋を航海するのに磁針のないような状態であったと見る。その中で出された勅語について、『儒教主義に非ずして国体主義なり』とし、勅語を一句ごとに解説したうえで、『日本の教育は日本の歴史よりせる国体を以て其精神たらしめ而して日本国民の資格を有せざるべからずと云ふの大御心たること其詔勅に於て昭々たり』と要約していた。勅語を分かりやすく復唱していた。

朝日新聞は、維新によって玉石ともに砕け、教育の大本も砕けてしまったという把握のもとに、『叡聖文武』の天皇が勅語を発した意味は大きく、皇祖皇宗の遺訓であるとする。『臣民たるもの豈恐懼の至りに堪へんや』と結んでいる。

戦前、教育勅語は欧米でも高く評価されていたとされている。欧米でも通じる内容であったといわれる。しかし、この論評をそのまま受け入れることには疑問がある。「国憲ヲ重シ国法ニ尊ヒ」という文言は、“always respect the Constitution and observe the laws”と訳された。「国憲」は、Constitution と訳されたので、欧米の人は自分たちの憲法概念に基づいて理解したのである。しかし、「国憲」は、欧米の憲法概念とは異質のもので、「憲法とは、人倫の大道を示せる美しき憲、厳しき法の義と解せられる。帝国憲法も亦、法制的意味に於いて、世界に冠たる美しき憲、厳しき法といふべく、即ちわが国憲(憲法)の重んじられねばならぬゆえんがここにある(森清人)」という。法とは、詔勅、すなわちミコトノリなので、「天皇宣りたまふものはそのまま掟(法・制)となるので、これをノリといふ」のである。憲法を重んじるという文言は、天皇の詔勅を重んじることなのである。

官民あげて教育勅語の普及を図ろうとする時期に批判的な言動をとり、職を奪われる事件が各地で起きた。代表的なのが、1891年に起きた内村鑑三不敬事件である。内村鑑三が嘱託教員であった第一高等学校で教育勅語の奉読式の際、深く拝礼せずちょっと頭を下げただけだったのが不敬である、と非難され、依願退職になったのである。頭の下げ方を真っ先に問題にした教師・生徒らは、内村の行動に対して、「抑も此勅語は我国教育の基礎学制の大本にして決して学理学説と同一視すべきものにあらず、若し之に違ふものはこれを我国民といふべからず、万一本校職員或は生徒にして之に違へる行為あるときは校長素より寸毫も之を仮借せざるべし(校友会雑誌)」と、述べている。

批判を許さないような姿勢が既に存在していた。政府の方針に反対するとたちまち発禁を命じられてきたように、詔勅に対する不敬は許されざるものであった。

帝大文科大学教授の久米邦武が1891年発表した「神道は祭天の古俗」という論文も、猛反発を受けた。神道の起源を論じ、「神について、我々に禍福を降ろし給ふならんと信じたる観念の中から生じた」と論じたことが問題だった。この論説は、勅語にいう「日本の国の始まりは宏遠である」という主張と反するところがあった。久米は、神道家達から猛烈に責められ非職となったのである。

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