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2014年2月25日 (火)

オランダ政府の行った「日本占領下インドネシアにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関する調査報告」(1)

現在、日本の慰安婦問題がクローズアップされ、国は関与していないという主張が大手を振って闊歩している。証拠がない、客観的に裏付けが取れないという理由で、元慰安婦の人の証言は嘘呼ばわりされている。はたしてそうなのか。戦争という人間精神が異常をきたしている中で何があったのか、どこかに真実を示す資料がないものかと案じていた。

そんな中先日、日本軍の戦時中の強制売春に関する資料を保管していたオランダ政府の調査報告書があることを知った。この調査結果は、次の本の中に所収されており、元オランダ・ライデン大学教授の村岡崇光が訳出されたものである。全文は長いので抜粋してお知らせする。何が真実であったかは資料を読まれればわかると思う。現インドネシア(戦時中オランダ領東印度)における日本軍の占領政策は、他の地域に比べて比較的よかったと聞いていたが、どうもそれは過大評価であるようだ。(資料:梶村太一郎/村岡崇光/糟谷廣一郎著「『慰安婦』強制連行~[資料]オランダ軍法会議資料×[ルポ]私は〝日本鬼子”の子~」週刊金曜日 2008)

オランダ政府は、政府公文書保管所に保管されている日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関する文書の分析の必要性を痛感して、1993年「日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関する調査」を指示した。保管されている資料は、関係者の過去のプライバシーにも鑑みてたやすく公開できるものではなかったため、情報公開されていなかった。しかし内部調査が必要であるとの結論に達し、調査を指示したものである。女性に売春を強制することは、第二次世界大戦時のオランダ領東印度政府によって戦争犯罪と見なされていたため、情報は収集されていた。

調査結果によれば、日本占領時に日本軍あるいは日本軍政当局によって、オランダ領東印度の五大島とその他の小島で日本の軍人並びに民間人のための売春が供せられていた。売春婦とされたのはインドネシア人だけでなく、インドネシア・オランダの混血、オランダ人も含まれていた。これらの女性が売春を強制されたのか、あるいは自発的に性的サービスを提供したのかは、売春婦として徴募された時の状況とその後の状況に関する情報が得られて初めて確定できる。しかしながら、日本軍占領下であったこと、残忍な守衛の扱いや極端な食料不足によって身体障害、慢性の病気、さらには非常に高い死亡率を示していた抑留所の状況を考慮に入れれば、「自発的」という言葉は相対的なものとみられなければならない。抑留所の外に居住していたヨーロッパ人女性の経済的、社会的な状況も同じように悲惨なものであった。

そのような状況においては、十分な情報が得られなかったとか、あるいは日本軍政当局の脅かしが伴っていたとかの状況があれば、提案に同意したとしても、それを自発的とみることはできない。ヨーロッパ人女性が申し出を断るつもりだったが、日本軍政当局の実力行使のために拒否できなかったという事例が多数あるが、このような事例はバタビアの臨時軍法会議によって「強制売春」として解釈されており、この報告書もその解釈を採用する。調査結果によれば、オランダ領東印度各地の娼楼にヨーロッパ人女性を送り込むために日本占領軍が実力行使した事例が数例あった。娼楼で働いた200~300人のヨーロッパ人女性のうち約65人は売春を強制されたことが絶対に確実である。

(1)日本軍のオランダ領東印度の占領直後

日本軍は、1942年1月オランダ領東印度を初めて攻撃し、ボルネオ島、セレベス島を占拠した。3月1日にはジャワ島に上陸し、数週間の間にオランダ領東印度を降伏させた。その数週間後にはスマトラ島、スンダ諸島、チモール島、モルッカ島並びにニューギニアのほぼ全体を占領した。

攻撃、占拠、占領の初期には、日本軍人による強姦事件が、タラカン、メナド、バンドン、パダン、フロレスなどで多発した。日本軍が加害者を厳しく処分した場合もあった。ジャワ島のスマランに近いプロラで発生した強姦事件は、20余人のヨーロッパ人女性を二軒の家に監禁するという悪質なものだった。そこで三週間の間、未成年の娘を抱えた母親を含む少なくとも15人の女性たちが、さまざまな連隊が通りかかるたびに日本軍人によって、一日に数回にわたって強姦された。女性たちはある連隊長に抗議したが、無視された。この強姦はたまたまこのことを聞きつけた、別の所にいた高級将校が即刻やめさせるまで続いた。

大本営も第七方面軍司令官もオランダ領東印度地域における娼楼設置についての一般的な規則や指令を出していない。現地人や捕虜、また民間人抑留所に抑留されている者たちの取り扱いに関する一般的なルールが数件あるが、このルールには売春についての特別な規則とか、例外規定は含まれていない。しかしながら、娼楼の設置については黙許した。自分が担当する地域での娼楼の運営についての具体的な規則はその地域の軍司令官が作成する羽目になったというのが実情である。

ジャワ島の場合、ジャワ島の第十六軍参謀長、すなわち、当地の軍政責任者は娼楼の設置には許可が必要だと決定した。許可はある一定の条件、たとえば、定期的な性病検診とか女性への支払いについての条件などが満たされて初めて得られるとされ、さらに、そこで働く女性たちが自発的に働いているということも前提条件であった。規則によると、そこで働く女性たちが自発的に性的サービスを提供しますという趣旨の陳述書に署名した場合にのみ、免許が交付されるとされた。第十六軍の組織内では兵站担当の将校が免許の発行や娼楼の免許条件を守らせることの責任者だった。軍娼楼で働くのに適当とされた女性たちは非常に若く、日本語やマレー語で書かれた自発的営業の陳述書を読めないことが多かったから、そのような監督は必要だった。

軍娼楼に集められた女性は、日本と朝鮮から連れてこられた女性、インドネシア人女性、抑留所に抑留されていたヨーロッパ人女性、抑留所の外で生活していたヨーロッパ人女性に分けられる。

(2)ジャワ島のケースー概観

ジャワ島では、第十六軍が娼楼設置の免許制度を実施していた。入手可能な情報をもとにして再構成すると、次のような輪郭が得られる。

すでに侵攻時と占領の初期には、日本軍は第三者を使って女性を徴募した。いくつかの方法があって、占領のごく初期にはオランダ領東印度政府官吏が適当な女性を探すように圧力をかけられていたが、強制抑留が始まって、この方法は自然消滅する。この時点では、抑留所に入れられずにすんだ(少なくとも当座の間はということだが)ヨーロッパ人が、インドネシア人や中国系住民とともに女性集めの責任を負わされ、主として現地人女性を集めていた。1943年半ばころまで、女性たちは日本軍将校や民間の日本人の個人の家の女中として集められていた。この時期、日本人たちはヨーロッパ人やインドネシア人個人の営業の売春婦とか、現地の民間売春宿をひいきにしていた。同時に、日本人はホテルの経営者や民間人に建物を日本人用の娼楼にするよう指示していた。売春婦たちは、ヨーロッパ系であれ、現地人であれ、売春宿の経営者やほかの仲介業者によって集められていた。

1943年の後半になると、政策の変更があり、陸軍と軍政部は日本人と朝鮮人の業者の協力の下で、娼楼の設立を直接に自分たちの管理下に置くことを決定した。この政策変更は、バタビア、バンドン、プカロンガン、マゲラン、スマラン、そしてポンドウオソなどで実行された。ヨーロッパ人女性がこれらの娼楼に送り込まれた。陸軍や憲兵隊は、抑留所やその他の場所から女性を狩り集めるために実力行使をした。インドネシア人女性と中国人女性だけの別々の娼楼が設置された。ジャワ人女性や少数のヨーロッパ人女性が外海諸島の娼楼に輸送されるためにこれまで以上に意識的に狩り集められた。1944年4月、陸軍は、ヨーロッパ人女性の娼楼における就業の停止、ならびにいくつかの娼楼の一時閉鎖を決定した。同時に、ジャワからの女性の外海諸島への輸送も停止となった。

1944年の中ごろから45年8月15日の日本の降伏直後の期間に至るまで、ジャワ島の日本軍は既存の民間売春宿や売春斡旋業者からヨーロッパ人女性を調達しなければならなかった。陸軍も軍政部も、もはや組織的な実力行使を行わなかった。残存する軍娼楼(たとえばスマランの娼楼)は、民間の売春宿からヨーロッパ人売春婦を連れて来ていた。

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