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2016年4月19日 (火)

アダム・スミスの意図した「神の見えざる手」

アダム・スミスが、語った「神の見えざる手」という言葉は、資本主義社会に大きな波紋を起こして来た。人間は、個人の利益を追求するという利己心を以て取引をしても、「神の見えざる手」が市場の調整を果たし、社会全体の利益になるという考え方となって定着した。
アダム・スミスの「神の見えざる手」は、「国富論」の記述を離れて、市場における自由競争が最適な資源配分をもたらす(需給関係を通じた価格変動の)自動的な調整機能を指すものとして使われるようになった。市場における調整にゆだねるという自由主義の根拠となっている。
はたして、アダム・スミスは、人間の利己心を無制限に是認したのであろうか。古来、人間の経済活動に対しては、アダム・スミスのように楽観的な見解はない。
 
孔子・二宮尊徳の経済観
 
中国の聖賢孔子は、経済活動に対して、慎重に言葉を選んで語っている。
子罕(まれ)に利を言う。命と与(とも)にし、仁と与(とも)にす。

<先生は利について進んで話をすることは少なかった。それに触れるときは運命や仁徳と絡めて話された。>(子罕第九)

孔子は、道義の追求のみを許し、利益の追求を許さなかったということではない。普通の人たちが利を優先して義を軽んじたり、ひどいときには利に目がくらんで義を忘れてしまうことがあったからこそ、わざわざ利について語らなかったという。

 

日本の社会改善家二宮尊徳も、「道徳なき経済は悪であり、経済なき道徳は寝言である」という有名な言葉を残している。経済を切りはなした道徳は、現実の社会では役立たない、現実味をもたないと述べている。一方、道徳性のない経済は悪となると語っているのである。放任された経済がいかに醜い結果をもたらすかを戒めている。ここには、アダム・スミスのように経済が「神の見えざる手」によって導かれるなどと楽観的な考えはまったくない。

では、アダム・スミスは、経済活動をどのように考えたのであろうか。「神の見えざる手」とは、何を意味したのであろうか。

 

●「神の見えざる手」は、 an invisible hand であって、≪of Godはない≫
 
「神の見えざる手」と呼ばれている箇所は、an invisible hand of Godであって、原文にはof Godはない。つまり、「見えざる手」と訳する方が正確である。「神の見えざる手」が導くという理解は、市場における調整はすべて神の御心であるという解釈につながった。
 
では、「見えざる手」とは何か。自由競争という形式においては、「見えざる力」言い方を変えれば「神秘的な力」が決定権をもっているということを述べていると理解してよいだろう。
 
アダム・スミスは、理神論の立場から万能の神によって事物の秩序が保たれるという考えに立っていたので、「神が導く」と理解できるような記述をしたのであろう。しかし、理神論というキリスト教の立場に立つとしても、キリスト教の世界観の中では、神の存在とともに神の行く手を邪魔しているサタンという存在がいることを忘れてはいけない。私は、「見えざる手」には、この世の支配者「サタンの見えざる手」も働くというもう一つの神秘的な力もあるということを指摘したい。市場は、神の見えざる手による調整とともに、サタンの導きによる調整(カタストロフィー)があるということである。
 
事物の自然な流れと経済活動
 
これほど有名になった「見えざる手」という言葉は、「国富論」の記述の中で一回しか出てこない。その箇所は、資本を持っている人が、どの産業どの場所に投資するかを判断する場面において使われている。「見えざる手」は、「個人の利益追求は、安全を目指して、なるべく目のとどく近い場所に投資先を求める」という個人の性向を述べた後に出てくる。
 
「各個人は、かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。
外国の産業より国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは他の多くの場合と同じく、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べて、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利得を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない。」
<大河内一男監訳「国富論Ⅱ」中央公論新社 第4編第2章p317~318>
 
個人的な利得や打算と、生産の増大という社会的利益とは、「自由放任」や「自由競争」を媒介にしても、論理的には結びつき得ない。これをつなぐ役割として登場するものが「見えざる手」であり、「見えざる手に導かれて」個人的なものと社会的なものとが結合しうるのである。
ここで注意してほしいのは、スミスが述べている経済活動は、事物の自然な流れに従った安全をめざした目のとどく投資である、ということである。このような事物の自然な秩序に従うという前提であれば、「(神の)見えざる手に導かれて」個人的なものと社会的なものとが結合すると述べているのである。そうではない投資ならば、個人的なものと社会的なものとは結合しないということが裏に隠れている。投機という資本主義社会を混乱させている投資は、スミスが語った「見えざる手」ではなく、「サタンの見えざる手」の導きと解していいだろう。
二宮尊徳が農村の再建の際、重視した「分度」と呼ばれる基準に通じるものである。尊徳は「分度を超ゆるの過、恐るべし」という言葉を残しているが、事物の自然な流れを無視したり超えると、恐ろしいカタストロフィーが待ち受けている。アダム・スミスは、あくまで事物の自然な流れのもとでの投資・経済という条件の中では、神の見えざる手に導かれると語ったのである。

 

 

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