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2022年8月

2022年8月28日 (日)

岸田首相の政策判断は、政治状況の混乱をもたらし大震災を呼び込もうとしている。

 岸田首相は、8月24日、所属議員に社会的に問題のある団体との関係を清算することを重ねて求めるとともに、喫緊の電力不足の解消を図るものとして、原子力発電所の再稼働を最大17基検討すると発表した。2011年の東日本大震災の悲劇もまだ記憶に新しい中で、再び原子力発電所の稼働することは全国のあちこちに危険の種をまくようなものである。老朽化した原発を稼働させたい電力会社の意向が強く働いているとしか思えないが、本当に大丈夫なのか。私は、過去の大震災を検証してみて不安を覚える。最初に結論を記しておこう。

<日本の大震災は、自民党政権に綻びが生じて共産主義を容認する野党政権になると起きている〉

 日蓮は、蒙古襲来の危機が迫っていた時、悪法への帰依を続けたならば、災害や天変地異、天体運行の乱れなどが起き、国内では内乱が起こり、外国からは侵略を受けて滅ぶと警告した。科学時代の現在、まさかそんなことはありうるはずがないと多くの人は思っているだろう。

 そのように思う人々に、日本に起きた明治維新以降の大震災についてその背景を紐解いてみたい。

 明治以降の歴史に残る大震災として、1923年の関東大震災、1995年1月の阪神・淡路大震災、そして2011年の東日本大震災があげられる。よく言われるのが、1995年の阪神大震災と2011年の東日本大震災は野党政権下であったということである。1995年の時は社会党村山富市政権で、この時は3月に地下鉄サリン事件も発生している。2011年の時は民主党菅直人政権であった。

①2011年の東日本大震災の背景

 2007年の安倍首相の自身の体調不良を理由の突然の退陣をきっかけに政治の混乱が始まった。この状況は、今回の安倍元首相の襲撃による死去とかなり似ている。後任首相に福田康夫氏、麻生太郎氏が就任する。このころ、自民党の衰退(55年体制)が深刻になっていた。橋本首相の六大改革(行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革(金融ビッグバン)、教育改革)』・小泉首相の構造改革(不良債権処理の加速・規制緩和・簡素で効率的な政府)という新自由主義改革が進められていた。活力を取り戻そうとする試みで、「官から民へ。改革なくして成長なし」のキャッチフレーズが記憶にある方も多いであろう。

 この政策は、不良債権の処理を終えた企業の再生をもたらしたものの、国民の間には貧困と格差の拡大をもたらしていた。2009年までの10年間に正規労働者は400万人も減り、その代わりに非正規労働者は600万人も増えた。そこに2008年9月、リーマンショックに端を発する金融危機が到来する。2008年の金融危機を契機に25万人もの非正規労働者が2009年末までに職を失った(厚生労働省、2010)。 派遣切り、ネットカフェ難民、シャッター商店街などという流行語が生まれ、自民党への支持も激減していく。2008年12月の内閣支持率は21%(読売)にまで低下していた。2009年2月には中川昭一財務大臣の「もうろう」記者会見まで起こる。自民党内には「麻生おろし」の動きが強まり、麻生内閣は迷走していく。国民の間には、野党に政権を一度任せてもいいのではないかという雰囲気が広がる。

 その状況下で行われたのが2009年の衆議院議員選挙であった。この選挙において民主党が308議席を獲得し圧勝した。議席占有率は64.2%に達した。自民党は、119議席を獲得したものの181議席の減少となった。民主党は、社会民主党・国民新党と連立を組み、鳩山由紀夫氏が首相に就任した。非自民・非共産の連立政権は1994年の羽田内閣以来の出来事であった。当時の民主党は、「政策中心の選挙」を目指し,2003年衆院選以降は政権公約(マニフェスト)を掲げて支持を訴えるスタイルを確立していた。以降,民主党に「政権担当能力」を感じる有権者は,着実に増えていったのだ。そして,2004年・2007年参院選に勝利して政権交代が視野に入るようになっていた。

 しかし、民主党は選挙に大勝利したものの、もともと政権交代を目標にして政策理念も目標もバラバラな政党の集まりとして誕生した政党で、衆議院選挙で実現不可能なマニュフェストを掲げて政権を取っただけだったので、政権交代後は政権運営能力のなさが露呈して一気に国民の信頼を失っていった。脱官僚・政治主導を掲げ、国家戦略室と行政刷新会議を設置し、子ども手当、高速道路無料化を選挙公約に掲げていたが、 政治主導=官僚排除という理解では官僚の協力を得られず、生と官の信頼関係は失われ、政策は空転した。(詳しくは、067_01.pdf (jimin.jp)

 鳩山内閣は、発足時70%以上の支持率を得ていたが普天間基地移設問題などで党内に不協和音が起こり、退陣に追い込まれる。2010年6月、菅直人内閣が誕生した。組閣を見て、故安倍晋三元首相は「史上まれにみる陰湿な左翼政権」と批判した。2010年9月には、尖閣諸島近海で海上保安庁の巡視艇と中国の漁船が衝突する事件が起こり、日中関係が緊迫化していった。第176回臨時国会(2010/10/1~12/3)で政府が提出した法案の成立率は過去10年で最低の37.8%まで低下した、内閣支持率は20%台にまで急落する。  日本の政治は、崩壊寸前のところに来た。そこに2011年3月11日、東日本大震災が起こり、原発事故と放射能汚染という最悪の結果まで起こしたのだった。東北、東関東の人々に犠牲と辛苦をもたらしすことになってしまった。国政の過ちが国民の犠牲を生むことなったのだ。

②1995年の阪神・淡路大震災の背景

 1993年7月の衆議院議員選挙で自民党は過半数を割れ野党に転落する。転落の原因は、バブル崩壊とリクルート事件を契機とした相次ぐ政治腐敗に対する国民の批判にあり、政治改革を求める声が高まっていた。1988年のリクルート社の未公開株の有力政治家への無償譲渡・巨額の献金、1992年には自民党竹下派と暴力団の関係が明らかにされた東京佐川急便事件、翌93年には自民党の竹下派会長金丸信氏が巨額脱税事件で逮捕された。ゼネコンによるやみ献金事件も次々に明らかとなり、政治と金の問題に国民の怒りは頂点に達していた。

 自民党内では、中選挙区制に問題があるとして小選挙区制への政治改革を推進しようとする改革推進派と改革を先送りしようとする政府側とに分裂していた。93年6月、自民党内の改革推進派は野党と共同で宮沢政権の不信任案を提出、可決された。不信任案に賛成した自民党議員は同党から離脱、「さきがけ」や「新生党」を結成した。93年7月の衆議院議員選挙では、1992年5月細川護熙氏が立ち上げた「日本新党」とともに保守3党が大躍進する(新生党55名、日本新党35名、新党さきがけ13名)。総選挙後、「さきがけ」と「日本新党」は衆議院院内会派「さきがけ日本新党」を結成し、議員52名を要する第5勢力となり、政局のキャスティングボードを握るようになる。そして、新生党の代表幹事であった小沢一郎の打診を受けて細川護熙氏が首相に就任する。8月9日、38年ぶりの政権交代が実現し、政治改革を掲げる細川氏を首班とする非自民・非共産8党派連立内閣(細川内閣)が発足する。

 細川内閣は、発足直後75~83%の支持率を背景に政治改革を実行していく。しかし、政権内での対立の深まりと細川氏自身の東京佐川急便との関りが表面化して94年4月突如総辞職する。羽田孜氏が後継首相となるものの、政権運営に対する反発から社会党は離脱し、新党さきがけ、新党みらいは閣外協力に軸足を移していく。 羽田政権は少数野党となって94年6月総辞職し、自民党河野洋平総裁の呼びかけにより46年ぶりに社会党委員長を首班とする自民・社会・さきがけの連立政権(自社さきがけ政権)として村山富市政権が誕生する。

 ここまででわかるように、当時の政治情勢は政党が乱立していた。これらの政党は94年12月に新進党としてまとまるが、政策の意思統一が難しく党内には亀裂が生まれていく。村山氏は首相に就任後、社会党時代の消費税反対を撤回し消費税増税(3%から5%へ)と舵を切り、社会党内にも亀裂を生んでいく。94年6月には松本サリン事件が起こり、世相は不安な状況が高まっていた。政治情勢は離合集散を繰り返し、混迷の極に達していた。阪神・淡路大震災が起きた日は、社会党の山花新党の旗揚げ日だった。1995年1月17日突如、阪神・淡路大震災が起きたのだった。

③1923年9月1日関東大震災の背景

 関東大震災は1923年9月1日11時58分に発生した大震災である。東京市内の6割の家屋が罹災し、死者・行方不明者は推定105,000人(うち火災によるもの91,000人)と明治以降の地震災害としては最大規模の被害を出した。全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟であった。 昼の食事の時間であったため火災が136件発生・広範囲に延焼し、火災は3日間続いたという。政府機関が集中する東京が直撃され国家機能がマヒしたため、政府は大規模な対応に追われた。避難にあたって尽力したのが軍だった。橋を架け、負傷者を救助した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」 (佐藤春夫「サーベル礼讃」、雑誌『改造』大震災号)という評価がマスコミや町にあふれた。第一次世界大戦後の不況下にあった経済は、より一層閉塞感を強めた。

 この関東大震災の発生の前夜にも同じような背景がある。当時の日本は、第一次世界大戦後の不況下にあった。ロシア革命や国際連盟の成立など国際政治の変化が起こり、国内日本では〈改造〉〈解放〉を合言葉とする革新気分がみなぎり,大正デモクラシーは最高潮に達していた。普通選挙運動は全国的に大衆化し,労働組合は急速に数を増した。慢性化する不況のなかで労働運動は激化し,不況下の農村では小作争議が激増した。

 1922年には日本農民組合(日農)が結成され,ほぼ同時に被差別部落民の全国的解放運動組織全国水平社が生まれた。 国外では1919年の朝鮮の三・一独立運動,中国の五・四運動に代表される反日民族運動が高まっていた。 1921年には大正天皇の病状が悪化し、皇太子裕仁が摂政となるという事態が生じた。こうした状況下で1922年4月に治安警察法(先鋭化しつつあった労働運動を取り締まるために制定)が公布される。一方、7月にはコミンテルン指導下に日本共産党が結成され、11月には日本共産党は日本コミンテルン支部として承認される。そして、海外では12月にはソビエト社会主義共和国連邦が成立する。

 一方政治に目を向けると、混乱状態になっていたことがわかる。1918年には日本初の政党内閣、原敬政権が誕生するが、普通選挙を拒否して小選挙区制を選択し、衆議院での政友会の絶対多数を確保すべく政策を強引に実行した。しかし、汚職が続発し、1921年11月暗殺された。後継の高橋是清首相は、経済の不況対策を図るものの党内の内紛によって倒れた。後を継いだ加藤友三郎首相はワシントン会議で協定された海軍軍縮のほか,陸軍軍縮も断行し選挙権拡張を検討したが、関東大震災直前病死した。関東大震災のさなかに成立した第2次山本内閣は挙国一致を唱え,普選採用をはかったが,政友会の協力が得られず,摂政暗殺未遂の虎の門事件を機に総辞職した。このように、社会情勢は不穏極まりなく、政治は頼りない状況となっていた。そのさなかに、1923年9月1日、関東大震災が起きたのである。

 現在の政治状況はとても似ていませんか。政治が混乱し共産主義革命が目前に迫ってくる時、大震災は起こっていることを肝に銘じてほしい。

 

 

2022年8月20日 (土)

時代の流れに任せると、日本は中国の属国になる

日本経済新聞(2022/8/20)は、日中両国政府は岸田文雄首相と習近平中国国家主席との首脳会談の調整を始めた。国交正常化50年の節目を9月に控え関係の改善を探っていると報道した。

世界情勢が混とんとして先行きの見えない状況の中で、緊張関係を緩和するうえで必要な外交政策であると納得される方も多いかもしれない。しかし、この背後には中国の魂胆が見え隠れしていることを忘れてはいけない。

先日、お隣韓国にも中国の誘いがあり、韓国は中国に引きずられていこうとしている。中国の王毅・国務委員兼外交部長(外相)は8月9日、山東省青島市で韓国の朴振(パク・チン)外交部長官(外相)と会談を行った。この会談で、中国の王毅外相は次のように述べている。

王外相は、2022年が中韓国交樹立30周年であることを踏まえ、両国関係について「相互に尊重、支持し合いそれぞれに成果をあげることは、両国および両国の人々に重要な利益をもたらすだけでなく、地域の平和と発展・繁栄にも安定をもたらすものだ」と評価した。

その上で王外相は、次の30年に向けて、両国関係は当然に(1)独立して自主的で、外部の干渉を受けるべきではない、(2)隣国との友好を堅持し、それぞれの重大な関心事項に配慮すべき、(3)開放とウィンウィンの関係を堅持し、産業チェーン・サプライチェーンの安定を維持すべき、(4)相互の平等・尊重と、内政不干渉を堅持すべき、(5)多国間主義を堅持し、国連憲章の趣旨と原則を順守すべきだという、「5つの当然」を提起した。

また王外相は、現在はグローバリゼーションが「逆流」しているとの認識を示し、特定の国により、グローバルサプライチェーンの安定が脅かされているとした。その上で、「中韓はグローバルな貿易システムの受益者・建設者として、共同で市場ルールに背く行為に抵抗し、両国間およびグローバルな産業チェーン・サプライチェーンの安定を維持すべきだ」とした。

中国外交部は、会談の中で、双方は中韓自由貿易協定(FTA)の第2段階協議を進めるとともに、産業チェーン・サプライチェーン安定に向けた対話実施に同意した、としている。

THAADミサイル(終末高高度防衛ミサイル)問題についても、中韓がそれぞれの立場を述べ、両国は相互の安全保障に関する懸念を重視し、両国関係のつまずきとならないよう、適切に処理するよう努力するとの認識を示したとされる。

遼寧大学米国・東アジア研究院の呂超院長は今回の会談について、「中韓はいくつかの問題で対立しているものの、朴外相の訪中は対中関係における韓国側の誠意を表したものだ」と評価した(「環球時報」8月10日)。

中国側は、自国が行っている新疆ウイグル自治区の迫害、香港の民主化、一国二制度の蹂躙などの悪行を棚に上げて、中国の市場が必要だろうという甘言を持ち出して懐柔してきている。台湾情勢が緊迫化するなか、一国でも米国から引き離したい目論見が見える。中国の環球時報は、10日の社説で、「中日関係はより成熟し、安定し、健全で強靭であるべきだ」と指摘している。

このような中国の外交戦略は、30年前にもみられた。1989年民主化を求める若者を弾圧した天安門事件をめぐって、西側諸国は経済制裁を発動した。苦境に陥った中国は、突破口を日本に定め、1992年の天皇訪中という果実を手に入れた。これを機に、西側諸国は経済制裁の解除に動き、中国は息を吹き返した。そして、日本は衰退の30年に突入した。トイザらス新潟の出店をめぐって起きた規制緩和問題は、大規模店舗法の改正を促し、全国の商店街を壊滅に追いやった。

現在、30年前と同じような展開がなされている。日本という国は、神国日本と昔から言われてきた。奈良時代には国家守護の象徴として東大寺の大仏が建立された。蒙古襲来の時日蓮は、「立正安国論」を書いて災難を止めるためには為政者が悪法の帰依を停止して正法に帰依することが必要であると主張した。さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が生ずると予言し警告した。  国難に陥ったときには、いつも神に祈り求めてきたのが日本人である。天皇家は、代々国家守護の御子として神に祈り続けてこられた。しかし今、国民は国難にあたっても神に祈り求めていない。このことは、次の悲劇を生むであろう。

日本の次の30年は、中国の属国化である。中国人が入ってきて(もう既に入ってきていて、多くの土地の買収がなされている)奴隷のように使われるであろう。新疆ウイグル自治区の人権侵害の問題は、明日の日本の姿であることを忘れてはいけない。日本人は、他人を追求すること、論争は苦手である。それは美徳である。西田幾太郎は、「自分という言葉は、絶対者である神を否定することによって生まれている」と述べている。神を求めない限り、この国に未来はない。

 

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